Sweet dreams, my love.



空っぽの廊下。

窓には分厚いカーテンが引かれ、人工以外の光はない。

もっとも窓が開いていたところで鏡のように外の闇を写すぽっかりと空いた漆黒の窓枠が並んでいるだけであろうが。

華美な装飾があるわけではないが、それでもホワイトリー家のカントリーハウスに相応しく意匠が凝らされた廊下は普通に見れば気品があって美しいのだろう。

しかしロウソクの炎が揺らめかすそれらの装飾の影は、幼いエミリーには恐ろしい何かが潜む隙間にしか思えなかった。

子どもでも扱えるような小さなカンテラでは長い廊下の先まで照らすことはできない。

そもそも、この空っぽの長い廊下をどこへ行くつもりなのか、エミリーにもわからなかった。

・・・・ただ、気が急くのだ。

(行かなくちゃ・・・・早く・・・・)

どくん、どくん、と心臓の鳴る音がする。

その音の大きさで手に持ったカンテラが揺れているんじゃないかと思う程に。

けれど、実際にカンテラの光りがちらちらと揺れる理由は、エミリーの手が震えているからだ。

白くなるほどに握りしめた手は小刻みに震えている。

(行かなくちゃ・・・・)

―― どこへ?

(行かなくちゃ、早く・・・・)

エミリーは立ち尽くしていた部屋の扉の前から、空っぽの廊下へと足を踏み出す。

途端に、戻るべき部屋の扉は闇に飲まれた。

幼いエミリーの前にも後ろにも広がるのは、真っ暗などこまでも続く廊下。

(早く・・・・早く・・・・)

こみ上げる焦燥感に幼いエミリーは歩を進めた。

最初は探るように。

けれど、次第にその歩幅は狭くなり、ついには駆け出す。

(早く・・・・早く、早く・・・・!)

空っぽの廊下はどこまでも延びていく。

カントリーハウスの廊下だったそれは、やがて石造りのそれへ。

部屋履きの布の靴ごしに伝わる冷たくて硬い感触がやけに生々しかった。

―― ・・・・そうよ、知っているもの。

石造りの通路はどこまでも長い事を。

見上げた先には飲み込まれそうな闇しかなかったことを。

(早く・・・・!)

幼いエミリーの手からいつの間にかカンテラは消えていた。

ただ、永遠に続きそうな暗闇の中をひたすらに走っている。

早く早く早く・・・・狂ったように頭の中を駆け巡る焦燥感。

―― 早く・・・・そう、どんなに急いでも、走っても。

幼いエミリーは必死に走る。

まるでこの廊下を走り抜けた先に、求める物があると思っているかのように。

―― ・・・・ああ、そんなわけはないのに、ね。

幼いエミリーを見つめる『エミリー』は、空虚な思いに吐息を零した。

空っぽの廊下、どこまでもどこまでも何かを求めて走り続ける・・・・そんな、夢。

何度も何度もくり返しみた悪夢を見ているのだ、とどこかで『エミリー』は理解していた。

幼いエミリーは・・・・『エミリー』は、ずっと空っぽの廊下を走り続けるのだ。

それはきっと幼い頃に両親を殺された晩に、走った廊下と、逃げた時の事を鮮明に記憶しているせいなのだろう。

夢を見る理由も薄々気が付いてはいた。

この夢には、終わりがないのだ。

どこまで走っても続いているのは真っ暗な廊下。

見渡せる範囲は恐ろしいぐらいに鮮明な映像なのに、目をやった先の廊下に出口はない。

うんと幼い頃には、両親が殺害された部屋へ飛び込む事もあった。

そして悲鳴を上げて飛び起きるのだ。

けれど、少しずつその回数は減っていっていつからか、どこまでも終わりのない廊下を走るだけになった。

(早く・・・・早く・・・・)

幼いエミリーはただひたすら前を見て走りつづける。

それを見つめる『エミリー』は、胸の奥を吹き抜ける冷たい風のような感情だけを抱きしめる。

―― この気持ちを何というかぐらいは、知ってるわ。

石造りの廊下がいつの間にか、絨毯張りのそれに変わった。

かつてのロンドンの屋敷の廊下と同じ装飾。

けれど、どこまで行ってもドアはない。

(早く・・・・・・・・寂しい・・・・)

―― そう・・・・寂しい。

寂しい寂しい寂しい・・・・どこまでも走りながら、空っぽの廊下と同じ様に胸の中に空洞が広がって、そこへ一つの感情だけが押し込まれたように、心が悲鳴を上げる。

両親が殺されて、ひとりぼっちになってからも、エミリーの周りに人がいなかったわけじゃない。

むしろ家族とも言うべき使用人達が、幼いエミリーを大切に守って育ててくれていたし、エミリーも彼らが大好きだった。

―― ・・・・それでも、なんども夢を見たわ。

どうしようもなく空っぽなこの夢を。

誰かの手を誰かの温もりを求めながら走り続けて・・・・けして得られずに目が覚める。

そうすると朝日の射すベッドにいながら、酷く寒い思いをした。

けれどそれさえも、大事にしてくれている使用人達に対する裏切りのようで、誰かが起こしに来るまでの間、けして泣かないように、エミリーは静かに自分の身体を抱きしめていた。

・・・・だらか、きっと今日の夢の結末もないのだろう。

朝日が強制的にエミリーの意識を現に戻すまで、幼いエミリーはけして得られぬ温もりを求めて走り続けるのだろう。

胸が潰されそうな空虚、どこまでも続く空っぽの廊下。

悲しい諦観がエミリーの胸に広がった ―― その時。

―― ・・・・え?

ぽつ、っと。

どこまでも暗い闇の先に ―― 何かが、見えた。

(・・・・え)

幼いエミリーも戸惑ったように、足を止める。

流れていた闇は途端に沈殿し、再び廊下は装飾の影をちらつかせるだけの空間に。

けれど、その闇の遙か先に、確かに小さなロウソクが灯ったような明かりがあった。

―― どうして・・・・

(・・・・あれは)

戸惑いながらも、幼いエミリーは足を踏み出す。

遠くに見える明かりは、とてもとても、温かそうに見えた。

幼い足が再び床を蹴る。

走る。

けれど、今度はあてどなくではない。

(あれは)

―― あの光は。

いつの間にか、床を蹴る足に子供用の布の靴はなくなっていた。

闇の中、少しずつ大きくなる光に向かって走る足はいつしかすらりと伸びたエミリーの足へ。

空っぽの廊下に光りが射す。

―― ああ・・・・

(この光を・・・・私は知ってる。)

温かい日溜まりのようにエミリーを包み込んでくれる、優しい光を。

まるで朝になって長い廊下の先から分厚いカーテンが順繰りに開かれ、朝日が廊下に流れ込んでくるように大きくなる光へと。

エミリーは大きく床を蹴って ―― ・・・・・・・





「 ―― !」

ぱちん、と音がしそうなぐらい勢いよく目を開けた途端、焦げ茶色の瞳とまともに視線がぶつかった。

「あ・・・・起きた?」

「え・・・・」

普段よりも少し押さえた感じの声にそう囁かれて、エミリーは自分の状況が飲み込めずに一瞬戸惑った。

転がっているのはベッドで、着ているのは寝間着で、それは夢から目覚めたシチュエーションには相応しい。

けれど。

「ワト・・・ソン?」

何故、自分は彼の腕の中にいるのだろう?

そんな問いを色濃く含んで名を呼ばれた、ウィリアム・H・ワトソンは「ああ、やっぱり寝ぼけてる」と、小さく苦笑した。

「君も、ワトソンになったばかりだろう?ミセス・ワトソン?」

「え!?・・・・あ」

一瞬ぎょっとして・・・・すぐに、エミリーは「あ」の口の形のまま、止まってしまった。

(そう・・・・だわ。)

つい先日、エミリーとワトソンはいつかの約束を叶えて結婚したのだ。

その証拠に、今、ワトソン越しに見える家の造りは、かつてのホワイトリー家の屋敷のように気品と伝統に満ちたそれではなく、庶民的ながらも温かいものになっている。

(ああ、そう言えば、今日はワトソン・・・・ウィルが事件が解決しないから遅くなるって連絡があって。)

結婚してからももちろんホームズの助手を続けているワトソンから、そう連絡を受けて苦笑したのは多分数時間前の話。

屋敷を出る前からハドソンとマープルの指導の下で鍛えていたおかげもあって、大分慣れてきた夕食作りも美味しそうに食べてくれる旦那様がいないと張り合いがでない、なんて思いながら簡単な夕食を済ませて一人床についたことも思い出した。

「寝る前は・・・・貴方がいなかったから。」

「ああ、遅くなってごめんね。君の夕食が食べたかったんだけど・・・・」

はあ、とため息をつくワトソンに、エミリーはしかたがないわと笑った。

「ホームズが事件に夢中になったら私たちが新婚だなんて吹き飛んでしまうでしょ。」

「そうなんだよなあ。」

今日は家に帰れただけましか、とため息をつくワトソンにエミリーも頷いた。

と、ふいにワトソンがその焦げ茶色の瞳を心配そうに細めた。

「それで・・・・どうしたの?」

「え?」

「うなされていたみたいだったからさ。」

「あ・・・・」

ワトソンの言葉に、エミリーは己の状況をまた一つ理解した。

多分、ワトソンは帰宅して寝室を覗いた時、エミリーが悪夢を見ている事に気が付いたのだ。

だから。

「・・・・もしかして、それでそのままのシャツとズボンで抱きしめてくれたの?」

「うっ。」

エミリーの指摘にワトソンは悪戯を見つかった子どものような顔で呻いた。

そう、今、エミリーを抱きしめているワトソンの服装はこれから眠ろうとする人のそれではなくて、いつもワトソンの外出着から帽子とサスペンダーとスカーフをとっただけの姿だったから。

「だってさ、帰ってきてまっ先にエミリーの顔を見に行ったら、なんだか苦しそうだったから。」

「苦しそう?」

「うん。何かを探してるみたいに手を伸ばしてきて、だから俺、思わず手を握って。」

そう言って動かされたのは、ワトソンの左手。

そこにはしっかりとワトソンの手を握りしめた自分の手があって、エミリーは今の今まで自分がこの手を意識していなかった事に驚いた。

「でも手だけじゃまだ足りなそうだったから、ベッドに入って抱きしめてみたんだ。それで、こうやって」

そう言いながら、ワトソンは空いた右手でエミリーの頭を撫でながら、額にキスを一つした。

「!」

「キスしてみたら、君が起きたからちょっと驚いた。」

その言葉に・・・・エミリーはようやく静かに息を吐いて笑った。

笑ったつもりだったけれど、もしかしたら泣きそうな顔になっていたのかもしれない。

というのも、ワトソンがぎょっとしたように目を丸くしたから。

「エ、エミリー?そんなに怖い夢だったの?」

「・・・・ええ。怖い夢だったわ。」

長い、長い間、エミリーを苛んでいた悪夢だった。

周りの人間が好きだから言えない、ホワイトリー家の唯一の生き残りだから言えない・・・・孤独の夢。

誰にも言う事が出来ずにいたあの空っぽの廊下。

でも。

「貴方だったのね。」

あの廊下に射した光は。

そう言いながら、エミリーは握りしめていたワトソンの左手を離すと両手でぎゅっとワトソンに抱きついた。

「エミリー?」

「やっぱり、貴方は温かいわ。」

戸惑ったように聞こえるワトソンの鼓動がひどく愛おしくて、エミリーは彼に甘える子猫がよくそうするように、頬をすり寄せた。

(温かくて、私を包んでくれる光。)

ああ、久しぶりにあの夢を見た理由が今わかった。

「私・・・・自分で思っていたより、貴方がいなかった事が寂しかったみたい。」

「!」

頭の上でワトソンが息を飲んだ音がしたのは気が付いたけれど、胸の中に溢れた思いは勝手に言葉になって出てしまう。

「両親が亡くなった後、何度も見た夢があるの。でもその夢を見る時は決まってとても寂しい時。ずっとずっと暗い中にひとりぼっちの夢。・・・・でもね、今夜初めて出口が見えたわ。走って走って、目が覚めたら・・・・貴方がいたわ。」

幼い頃から求め続けていた温もり、それが今ここにあるのだと思うと嬉しくて愛おしくてたまらない。

その気持ちがどうか伝わるように。

そんな思いをこめてぎゅっと抱きつけば、ややあって大きなため息とともにぎゅうっと抱きしめ返された。

「・・・・あのさ、エミリー。それは反則。」

「え?」

「うなされてたから、ちゃんと起こして眠らせてあげようと思ってたけど・・・・そんな事言われたら無理だよ。」

「え・・・・・ん!」

ワトソンの言葉の意味をエミリーが理解するより先に、唇がキスでふさがれた。

「・・ん・・・・は・・」

それは薄い眠りの中にあった体に火を付けるような、熱い。

「・・・ふ・・・・・ね、エミリー。」

唇が離れた途端大きく息を吸ったエミリーに、ワトソンがキスが出来る距離のまま、囁く。

「俺は、君を一人にはしないって約束する。今はまだ俺達二人だけだから、今日みたいに遅くなって一人にするかもしれないけど、どんな時でもエミリーの事を想ってるってことを忘れないで。」

「ウィル・・・・」

誰よりも深いワトソンの愛情が、静かに胸に落ちていくのを感じながらエミリーが小さく頷くと、不意にワトソンは少し悪戯っぽく目を細めて言った。

「それに、さ」

「?」

「これから先、俺と君に子どもが出来れば、きっと賑やかすぎて寂しいなんて思う暇はなくなるよ。」

「!」

思いがけない言葉に目を丸くするエミリーの、その瞼に口付けをして、ワトソンは笑った。

「俺がいる時は寂しければいつでも抱きしめるし、俺がいなくても子ども達が君を抱きしめてくれる・・・・だから、寂しい夢を見ることはきっともうない。ね?」

(―― ああ)

空っぽの廊下に朝日が差し込む・・・・そんな景色が瞼の裏にうつった気がした。

明るい光は冷たい闇に怯えていた廊下を温かく包んで、迷子の幼子を抱きしめてくれる。

そして顔を上げた少女の目には、窓一杯の明るい ―― 未来が映るのだ。

「―― ワトソン・・・・ウィル。」

「ん?」

「大好きよ・・・・愛してるわ。」

色々な感情が心に溢れすぎて、けれどそれを集約するとこの言葉しかなくて。

そんな気持ちで紡いだ言葉に、ワトソンは柔らかく破顔する。

そうして引き寄せられた胸は ―― やっぱりとても、温かくて。





―― この満たされた温もりを、幸せというのだと、下りてくるキスを受け止めながら、エミリーは微笑んだ。











                                               〜 END 〜
















― あとがき ―
もっと男前のワトソンが書きたい(><)